「そういえばこの前おばあちゃんがまた
綺麗なしおりを作って送ってくれたから机の上に置いておいたよ」
一階から縁側を掃除している母の声がした。
読みかけのままの本の上にそっと置かれていた
その手作りの押し花のしおりを手に取り、窓に向けて光にかざす。
しおりの向こうに見えた
窓枠で切り取られた青い空が綺麗で、思わず窓を開けた。
ほのかに海の香りがする冷たい風が静かな部屋に吹き込み、
本のページを数枚めくり、
その拍子で机の上に置かれたものがひらっと木の床に落ちた。
そういえばこんな写真、撮ってたな。
この絵ハガキ、書きかけのまま出してなかったな。
しゃがんで落ちたものを一つずつ手に取って見ていると、
記憶が一気に蘇る。
あの頃よく聞いていたレコードを流し、
部屋にあるものから記憶を一つ一つ丁寧に引き出す。
ゆらりと揺れたカーテンに誘われるように立ち上がり
窓に顔を向け 目を瞑って海の香りがする風を大きく吸い込む。
この香りを嗅ぐたびに広がる この窓から海が見えたあの頃の記憶。
久しぶりに帰ってきたこの部屋で
潮風とともに吹き込んできた記憶に包まれ、ほっとする。
押し花のしおりを読みかけの本の開いたページに挟み、
ぱたんと閉じ、そっと本棚に戻した。
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さび【錆/銹】
様々な化合物を人工的に還元させることにより形成された鉄が
空気中の物質と結びつくことで、それぞれ再び本来の姿に
戻ろうとする過程に起こる自然現象である。
空気中の水分を含む酸素と結びつくだけでもその現象は起こるが、
塩分と結びつくことでより一層促進される。
錆びてゆく過程において物質は熱を発生し、
その原理を利用したものにカイロなどがある。
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錆びる ということ。
それは人の記憶や思い出が蘇ることと近い気がする。
私が生まれた街は海の傍の港町で、
建物が並んでいて海は直接見れないものの
この街と同様、時折 風に乗って海から潮の香りがしてくる。
その潮風に触れて錆びた車や建物が独特の港町の景色を生み出していて
そのせいか、錆びているものを見ると自然と地元の記憶へリンクする。
そして潮風が香る度、「思い出」として形成され頭の奥にそっと置かれていた
記憶の要素が呼び戻され、頭の中で広がる。
この部屋に入った瞬間、
私は自分の何かの記憶にその「潮風」のようなものが触れ、
とても懐かしい気持ちになり、心が温まった。
記憶に浸るとき、人はとても人らしくなり、心は温度を取り戻す。
今はもうこの部屋の窓から直接海は見えないが
そこから吹く潮風は、これからも記憶を錆びさせてくれるだろう。
作品《潮風からの記憶》より
この文章は、旧柳下邸で行った
「そ の 間」展にて発表したインスタレーション作品
《潮風の記憶》に添えた言葉です。
今回の展示空間に入って数秒で私の記憶は一気に蘇り、
その場で一瞬にして作品の完成図が頭の中で描かれました。
それぐらい インスピレーションを与えるような
素敵な空間に出会えて、そこで特別に展示をさせて頂けた事に
心より感謝します。